大阪ミナミあきんどクラブホームページ    

懐かしのフォトストーリー

ttl
timeline
img01
  • img_face01

    志野 昌弘志野(株)代表取締役

    「ロバのパン屋は…..」と、路地から聞こえてきたのはもう40年前、その頃父親に連れられて、今里車庫前発、湊町行きの市電に乗り、難波の髙島屋、心斎橋の大丸、等百貨店に行くことが憧れでした。戎橋、道頓堀の賑わい、グリコのネオン、食いだおれの人形、ペコちゃんの人形の頭を叩いて、北極星のキャンデーを買って帰る。一家4人で往復160円の優雅な南の1日でした。今程便利じゃなかったけれど、もっとわくわくどきどきした街でした。出来るならそんな街にしたいものです。

  • img_face02

    中村 俊幸電研工業(株)代表取締役社長

    昭和37年4月、追手門学院の中学部に入学した。それまで実家の付近しか知らない「ぼくちゃん」は今はなき「チンチン電車」で通学する事になった。毎日が「遠足」で世界が広くなった記憶がある。桑津北口まで歩いて30秒、天王寺西門でまたチン電に乗り換え、椎寺町から上町筋を通りその当時は、近鉄線の終着駅「上本町のターミナル」の前をすぎ、「京阪東口」までの、片道50分くらいの小旅行だった。車内の座席は2列で、乗客は向かい合って座っていた。結構混んでいてほとんど立っていたが、たまに座れると教科書の入った重い皮のカバンを膝におき、「うたた寝」の時間であった。確か、運転手さんと車掌さんがいたが、いつのまにかワンマンカーになっていた。学生は定期券だが、電車賃は13円くらいと思う・・・少しして大阪市バスが走るようになり、都市交通は路線バスが主流になって行く。まだ「馬」が荷物を運んでいた平和な日本であった。

  • img_face03

    浪田 昌治浪田石油(株) 代表取締役社長

    昭和40年代の初め、市電で中学校に通っていた。当時の市電には必ず車掌が乗っており、切符に穴をあけるパンチをカチャカチャ鳴らしながら車内を歩き回っていた。次の停車駅を告げる際の車掌の声色やイントネーションに個性があった。レールの遊びが大きく、スピードを出すと左右に大きく揺れ、吊革が左右の窓ガラスに当たってパチパチと大きな音を立ててうるさかった記憶がある。停留所として、道路の中央部に高さ50センチ位の石造りのプラットホームがあり、乗客は通行車両から身を守っていた。運転手は軍手を嵌め、左手に電流の強さを操作するハンドルを右手にはエアーブレーキのハンドルを持ちながら、左右のハンドルで微妙なバランスを保ちながら運転していた。運転手によって上手下手がはっきりしており、下手な運転手にかかると急ブレーキの連続で、乗客は前後に振り回され苦笑いをしたものである。それぞれの運転手や車掌には個性があり、乗客も乗車の都度、個々の車両の持つ雰囲気を楽しんでいたように思う。

next
Copyright (C) MINAMI AKINDO CLUB All Rights Reserved.